度重なる高熱で疲弊し、最早歩くことすら侭ならぬ。食事も受け付けず、繋がれた点滴から水分や栄養を補給しなくてはならない姿から、目を背けたくなった。貴方に、相応しくない。
原因不明で治療法も見つからない新しい病気。膠原病の一種で、自らの肉体が生への拒絶反応でも起こすかのように、全身の炎症と出血が起こると言う医者。無能者、と吼える黒槍騎兵隊の提督を抑えはしたが、自分だって気持ちは同じだ。
何も出来ない。苦しそうに熱い息を吐き、眉を寄せて耐える貴方を、見つめることしか出来ない己は、なんと情けないのだろう。
帝国軍の艦隊を預り、指揮して名誉な渾名を頂いた。最新鋭の戦艦も、地位も。それが、しかし何の役に立つだろうか。
細くなった輪郭に、触れて一層惨めな気持ちになる。
まほろばの海で漂い、故人の姿を追っているのだろう。彼の人の名を、呟いては眦を滴が濡らしていた。
***
非番の日、誘われて久方振りに僚友と酒を飲み交わした。乾杯は、されどしない。
重苦しい沈黙があって、中身を半分ほど減らしたグラスを手持ち無沙汰に回していた。そこでようやく、口を開く。
「俺には、まだ信じられない。あの人は、不老不死なのだと、そう思っていた。」
馬鹿馬鹿しいが、と苦い笑みを浮かべ、一気に残りを飲み干した。
「親衛隊長という位についておきながら、俺が出来ることなど無い。陛下の体力は、もう限界に近いだろう。熱で魘される度、キルヒアイス提督を呼ばれる。それを聞くと、どうしようもなくつらい。一番、辛いのは陛下であるのに。」
「それは、誰も同じだ。」
そう返して、氷だけ残ったグラスを置く。
「あの方を失うことは、耐え難い。あれ程の御人は、もう二度とまみえることも無いだろう。あんな、眩しくて苛烈で、神々しい・・・人ではないと、不老不死という幻想を抱くのも、無理はない。」
「だが、あの方も人間だったのだ。今更になって、そう気付いたよ。永遠などない、と。口癖のように仰っていた。」
「永遠、か。」
不滅不朽は、有り得ないと。確かに、彼はそう言っていた。ウルヴァシーで襲撃にあったとき、敵前に堂々と身を晒して、焔の熱気に髪が舞い上がった。金色の鬣のように。そして蒼氷色の瞳は、燃え盛る焔以上に業火のようだった。
「撃つがいい。ラインハルト・フォン・ローエングラムはただひとりで、それを殺す者もひとりしか歴史には残らないのだからな。その一人に、誰がなる?」
出来るものならやってみせろ、とでも言いたげに。
或いは、それが望みだったのだろうか。永遠など、彼は求めて居なかったのだ。
「喩え、そうだとしても・・・こんなことになるとは、思っていなかった。誰よりも病没など似合わぬ御人だ、陛下は。」
無言で頷き、赤銅色の髪の僚友は黄玉の視線をテーブルに落とす。
「あと何日、保つだろうか。」
「医者は、口を揃えて分からないとしか答えないからな。俺にも分からん。が、それほど遠いことではないだろう。或いは、もう、はやく楽にして差し上げたほうが良いのかも知れないが・・・・。」
最後は独語のようだった。
店を出て、それぞれの帰路につく。見上げた空に流星が走った。直ぐ消えて、何処に行ったかも見失う。消えるまでに三度、願いを口にすれば叶うという御伽噺でも、今は縋ってしまいたかった。
***
翌日、陛下の寝室の前で狼狽する近侍に遭遇した。声をかけると、びくりと肩が跳ねる。
「ミュラー提督、」
「どうかしたのか?それは、陛下の・・・」
純白のマントに軍服。今となっては、纏うことのなくなった其れ。鮮やかに記憶に焼き付く、それを身にまとったときの姿が脳裏に蘇る。戦火に容貌を照らされ、軍神マルスのようであった、あの時を。
「陛下が、これを持って来るようにと仰ったのです。とても、歩ける程では無いのに、ッ!」
今にも泣きそうに、エミールは言った。
「何処へ、行かれると?」
「いいえ、それは仰られませんでした。ただ、着替えて、行かねばならない、と。」
本人に聞かねば、埒があかないと判断して扉を叩く。中に入り、身を起こす皇帝を見つめた。病人の面影は残っているが、嘗てこの身を震わせた、一種荘厳とまで言える畏怖が確かに存在する、その視線。
退きかける脚を、堪えた。
「何処へ行かれるのですか、陛下。」
「――――丘へ、行く。」
断固たる決意の伺える声。怜悧な其れは、幾万もの将兵を従わせた時と同じ。
「今の御身では、障ります。どうか、お考え直してください。」
「どうせ長くはもたぬ身だ、今更、寿命を縮めたところで、大して差もあるまい。」
「陛下!」
「最後の、我侭だ。」
ふ、と苛烈さが失せて、「頼む」と言う。
「・・・・エミール、着替えを手伝って差し上げろ。」
「提督?」
「陛下の命令に、臣下は逆らってはならぬだろう。それも、最後と言われては。」
狡い。そんな言葉を言われては、叶えぬわけにいかない。きっと、僚友であれば相当怒るに違いないが。
皇帝は瞬きしてから、小さく礼を言った。
絹の寝巻きを脱いで、やや痩せてしまったがそれでも引き締まり彫刻のような身を曝け出す。纏う黒の軍服と、白いマント。釦をとめ終えて、振り返る。翼のようにマントが翻った。眩しい、と思う。この姿は、恐らく見納めになるだろう。
「車を、お出しします。見つかれば大目玉でしょうから、急がねばなりません。ですので、しっかり捕まっていてください。」
言い終えて、直ぐに抱きかかえた。小さく悲鳴を上げ、それでも首に縋り付く。エミールが度肝を抜かれた様子で固まったが、気を取り直して自分も行くとついてきた。
地上車の後部座席に乗せ、自分は運転席に滑り込む。急いで、車を発進させた。丘、とは恐らく彼の人の墓のことだろう。他に思いつく場所がない。
シートに身を横たえて、バックミラー越しに皇帝の瞳が此方を見る。
「意外だな、卿は力づくでも止めるかと思っていた。」
「予想が外れて、申し訳ございません。期待に応えた方が、本当は良いのでしょうが。他でもない陛下の頼みです。どうして、小官が断れましょう?」
「キスリングは断っただろう。卿は、優しい。」
「それは違います、陛下。本当に優しいのは、そこのエミールですよ。」
自分は、優しくなどない。そう苦笑し、車を止めた。支えながら、墓前まで歩く。目の前まで来て、皇帝はよろめきながらも独りで歩み、墓の一歩手前で止まった。
「怒っているか、キルヒアイス?部下に我侭を押し通させ、それでもお前に会いに来たおれを。」
そっと、石を撫でる。我が友、とだけ記された無機物。その表面に、彼は頬を寄せた。長い睫毛を、震わせて。
「お前を、姉上に返さねばなるまい。長く、傍に居るようにさせて、すまなかった。それでも、おれは、」
か細く震える声。胸元から出された銀のロケットペンダントが強く、掌に握り込まれた。
「――――・・・もう、帰らなくては。医者が青褪め、部下が慌てているだろう。次は、ヴァルハラで会えるといいな。お前が、会ってくれればいいが。」
「おれを憎んでいるかも、しれないが、それでも。おれは、お前が好きだ。」
吐露される感情。ぽつ、と石の上に水滴が落ちる。手をかざせば、落ちてくる雫。
「陛下、雨が降ってきました。濡れてはなりません。戻りましょう。」
振り向かず、彼は首肯いた。もう、歩くだけの体力も残っていないだろう。再び抱きかかえて、車に乗せた。帰りは、只管に沈黙が下りていた。
寝室に戻ると、待ち構えていた親衛隊長が何か言いかけて、止める。大方、察したのだろう。
着替えさせて、寝台に寝かせる。それまでは、黙っていた。
「部下が騒がぬようにするだけでも、骨が折れたぞ。借りは返せよ。」
静かに寝息を立てているので、小声で話す。頷き、部屋を後にした。
が、直ぐに呼び戻される。
「怒られた。」
「え?」
「さっき、微睡んでいたら夢でキルヒアイスに叱られた。」
顔だけ此方に向けて、横たわったままで彼は言う。
「部下を困らせすぎだ、と。」
「・・・陛下を叱れるのは、彼くらいでしょうね。」
傍に椅子を置いて座り、まだ話したい様子の彼の言葉に耳を傾けた。
「予の無鉄砲さに、呆れつつも付き従い、共に歩んでくれたことを感謝する、ミュラー。」
「身に余るお言葉です、マインカイザー。」
「おや、呆れたというのは訂正しないのだな。」
「御自覚されているようでしたので、敢えて訂正致しません。」
「意外と意地悪だな、卿は。まあ、いい。その方が、ただ優しいよりは遥かに長生きしそうだ。しわしわのじじいになった卿に会うのが、楽しみだ。」
「それが陛下の御望みでしたら、そう致しましょう。」
差し出された手を握る。ふ、と彼は微笑んだ。
穏やかな、微笑。
「それを聞いて、安心した。ゆめゆめ、その言葉を忘れるなよ。早死したら、許さぬからな。」
「御意に御座います。」
言い終えると、とろとろと目蓋が降りる。また、夢で彼に会いに行ったのだろう。もしくは、もう直ぐ迎えに来るのかも知れない。
部屋を出て、鉛色の空から降り頻る雨を見つめる。
止まないそれが、誰彼問わない嘆きのように思えた。その中に、自分がいることも、嫌というほどに自覚しながら。
Ende.