Redemption

力強く羽ばたいていた金色の翼。それが今にも宿主を器から引き離し離れてしまいそうで、恐ろしかった。

ノックして扉を開ける。寝台に横になって、部屋の主は微睡んでいるようだった。こちらに気づいて、顔が向けられる。

木漏れ日に照らされる白皙の美貌は、ここ数日で見た中ではよい顔色だ。

起こして申し訳ないと謝罪すると、くすくすと笑った。

「よい。ただぼんやりしていると退屈だから、話し相手にでもなって欲しい。」

「小官で宜しければ。」

元より、そのつもりで足を赴けた。

寝台の横に椅子を置いて、腰掛ける許可を頂いて、持ってきた箱をテーブルに置く。

「睡眠時間を削って、押し付けられた仕事を片付けていた中級士官だった頃のぶんの睡眠を、いま与えられている気分だ。」

じっとしているのが落ち着かない性分で、何かしているほうが気が楽だと冗談半分に言う。確かにそうなのかもしれない。

ずっと走り続けてきた人だ。脇目も振らずに只管に、約束のために。

覇気に満ち溢れ、常に燃え盛る蒼い焔のようで。その燃料は自身の命であったのか。

純白のマントを翼のように風に靡かせ、凛とした声で数万の敵を迎え撃ち、突撃し、戦火に照らされる姿は例え様もなく美しかった。

最早、二度とそれを目にすることは叶わず、あれほどに苛烈だった光は、今は穏やかで。冬場に雲に隠れがちな日の仄白い陽光に似ていた。

もう、夏場に近付いているのに。

窓を開け放って、日当たりのいい場所で取り留めのない会話をする。こんな時間が訪れるなど、誰が予測できただろう。

緩やかに時が流れて、それに時折、笑い声が混じる。それは本来、喜ぶべきものなのに不安が募った。

先日も呼吸が停止して、あの時は危うくも死神との握手を振り払った。否、死神でなくかのヴァルハラに住まう者たちかもしれない。懐かしい者も居るが、まだ彼を連れていって欲しいとは思わなかった。その中に赤毛の青年がいたとしても。

箱からジュレを出す。色とりどりのそれは甘さも控えめで、食欲が失せる時にも喉通りがいい。最近はめっきり食事も摂らず――――――というより摂れぬらしい――――――輪郭がいっそう細くなったように見受けられた。勧めると、少し困ったように微笑んで、それでも銀の匙と一緒に受け取って貰えた。

一口分を掬って、自分などでは決してそんな風には真似出来ない(しようとも思わない)優美さでこくりと飲み込む。

季節外れだが白葡萄を使ったジュレの味は、お気に召したようだ。薄い唇は緩く曲線を描いた。

半分ほど召し上がって、テーブルに戻す。これ以上は、点滴やサプリメント、錠剤ばかりになってしまっている彼には苦痛でしか無いだろう。箱に戻し、近侍に冷蔵庫に入れるように頼んだ。再び背を、枕をいれて頭側を上げたベッドにもたれさせ、彼は細く息を零す。

「すみません。疲れましたか?」

「いや、構わぬ。寝ているだけ、という方が疲れるのだ。卿も入院して寝台に拘束された期間があったのだから、その苦痛は理解できると思うが?」

悪戯っぽく目を細めて言われて、頭を掻いた。

「それに寝て起きたとき、今は何時なのか、此処が何処であるのか・・・時折、失念しそうになる。まだ老人になったつもりは微塵にも無いのだがな。ああ、そうだ。そう言えば向こうの部屋の棚に、いいウィスキーがあった筈だ。卿にやろう。」

「宜しいのですか?」

「どうせ、予は飲めぬ。」

その時の笑顔は、郷愁のような、一抹の寂しさを孕んでいた。風に髪が揺れる。頬にかかったそれを真白い指が払い退けた。

飲めない、というのは酒が強すぎてという意味でないのは、直ぐそれと知れて、手を強く握り締める。

「宝の持ち腐れになるより良かろう。持って行くといい。」

「・・・・・はい。」

立ち上がり、隣室の扉を開けた。彼の住まう部屋は、凡そ豪華という言葉には届かない。歴代の皇帝に比べれば質素過ぎるくらいだ。華やかな装飾も煌びやかな調度品も彼は必要ない。使えるのであればそれこそ庶民のような品でよいのだ。実用性に重きを置いて、汚れやすかったり壊れやすいものより余程いいのだろう。そうさせないのは、“皇帝”という肩書きを重んじる者のためだ。

小さな隣室も、彼らしい、整えられて使いやすそうな部屋であった。棚には高級なワインやそれに見合うグラス、それとおそらくこのことだろう、重厚な琥珀色の小さなボトルがあった。どしりとした重さはボトルに比べれば不釣合いな気がした。

それを手にとって、戻ろうとした矢先、咳き込む音がして急いでドアを開け放つ。

寝台で、身を折り曲げるようにして口元に手をやって激しく噎せ、肩を上下させていた。駆け寄って、背を撫でる。落ち着いたか、と思えば、今度はくたりと力が抜けて、すっと体温が下がった錯覚を覚えた。

「陛下!」

肩を揺さぶるが意識は無く、呼び声にも答えない。顎を上向かせ、脈に触れると弱かった。瓶の蓋を開けてひとくち含む。

直ぐ手放した瓶が落ちて、床に琥珀色の水溜まりを生んだ。澄んだ硝子の砕け散る音も、耳に入らない。口移しで飲ませて、嚥下してくれたのに少し安堵する。

薄く目蓋が持ち上がって、金色の長い睫毛がぱちりと瞬いた。

見上げる宝玉のような蒼の瞳が、己の姿を移し込んだが、それは情けないにも程のある顔で。

「そんな顔をするな、ミュラー。・・・折角やろうとしたのに、勿体無い使い方をさせてすまぬ。」

口端の、飲み干せなかった酒を指の腹で拭って、薄く彼は笑んだ。床に散らばった飛沫に目を向けて、そんな言葉を呟くように言う。

音に慌てて駆けつけた近侍に、それを片付けるのは後でいいと伝え、下がらせて、物言いたげな親衛隊長も扉の向こうに姿を消した。

「いいのです、陛下。私が飲むには、高すぎる代物であったでしょうから。」

「平民出身とはいえ、もう上級大将なのだ、それなりの給料は与えているつもりだったのだが。足りぬか?」

「いえ、とんでもない!そうではなくて」

言い淀むと、またくすくすと無邪気に彼は笑った。

「卿はいちいち反応が面白いから、つい揶揄ってしまうな。許せ。」

「お人が悪いですよ、陛下・・・。」

「だから許せと言っているじゃないか。」

幾らか砕けた口調になって、ようやく笑いが治まると大きく息を吐き出した。

白い寝巻きについた琥珀の染みに、少しだけ眉を寄せて釦を外していく。

慌てて止める前にばさりと脱ぎ捨てられた。

矢張り少し痩せてしまったようだが、それでも失われていない神話像の大理石で出来た彫刻のようで、目に眩い肢体。着替えらしいものは近くに見当たらなかったので、上着を脱いで羽織らせた。

見慣れた黒に包まれた彼は、確かにどんな服でも似合うとは思うが一番腑に落ちる。

「心配症め、白髪になってしまうぞ?」

「そうしたら髪染めでも致しましょう。それでも、お傍に居させてくださいますか、マインカイザー?」

尋ねると、彼は首を横に振った。

「卿は連れていけぬ。まだ早い。」

「・・・・そうですか。」

「ああ、そうだ。それに、まだやってもらわねばならぬ仕事はたんまりと控えているだろう。アレクの子守、銃の使い方に艦隊指揮の指導だろう?それに他にも色々と・・・探せば見つかることだろう。人生が豊かそうで何よりだ。」

貴方ほど短い時間に詰め込まれていない、とは胸の内だけで反論した。指折り数え、まだあるんじゃないかと語っている、その少し濡れた唇に触れる。

「陛下、」

近づけようとして、温度の低い指先が押しとどめた。

「うつったらどうする。」

「医師は、原因も治療法も無いと言っていました。もし、私の口付けで病が此方にうつるのであれば光栄です。」

「馬鹿を申すな、ミュラー。卿が倒れれば他の者がそのぶん苦労する。止めておくことだ。」

「構いません。」

尚も言いたがる口を自分のそれで塞いだ。先程飲ませたアルコールが舌を甘く焼く。

くぐもった吐息を唾液ごと飲み込んで、呼気と共に病魔を吸えればどれ程いいだろうか。髪に指を差し入れて、深く深く貪りながら、そんな埒もない考えを抱いた。

「・・・・あとでどうなっても、知らないからな。」

「承知の上です、陛下。」

静かに身を離す。視線を手の上に落として、彼は小さく嘆息した。ゆるゆるとかぶりを振り、金色の燐光を空中に撒く。

「本当に、莫迦だな。」

笑おうとしてみせたのか、僅かに口元は引き攣っていた。

「そろそろ、親衛隊長や医師が目くじらを立てるでしょう。これで、失礼致します。」

「本当に失礼された気分だ。」

ぶうと頬を膨らませ、目を尖らせる。子供っぽい仕草だったが、美は損なわぬのだから熟熟凄いと思えた。苦笑を返して、一礼し扉へ向かう。

「ミュラー、」

名を呼ばれて振り向けば、寝台に身を横たえたままで、上着を指さした。

「これは後で洗って返す。それを取りに、足労だがまた来てくれ。」

「御意に御座います。」

また、と。そう願って扉から外に出た。

不動の姿勢で立っている赤銅色の髪の親衛隊長は、ちら、と一瞥して帰るように促す。

「誰にも見られぬように、彼方の廊下から行くといいでしょう。」

「ああ、有難う。」

礼を言って、軍靴で確りと床を踏みしめた。熱くなる目頭を抑えて足早に引き返した。

***

「・・・・・約束を破るなんて、矢張り貴方は御人が悪いですね。」

墓前に花を備える。花束を買うと言ったら、恋人にでもあげるのかと僚友に揶揄われた。或る意味では、それは正しいかもしれない。

自分だけの考えである、と取れなくもないが。

「其方は、貴方が退屈しない場所でしょうか、陛下。病床に縛り付けられていた時より、余程自由で、思う存分に英雄らの指揮権を執って御出でとは存じますが・・・くれぐれも無茶をなさってキルヒアイス大公を困らせぬようにしてください。」

分かっている、と拗ねた声が聞こえないかと耳をすませる。聞こえるのは、冷えた風が通り過ぎる音だけだった。

「―――では、息災で。御武運を。」

また、と口にして。立ち上がった。

ラインハルト・フォン・ローエングラム。私は、貴方が好きでした。

Ende.

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