有一句很有名的话:“生まれですみません”(生而为人,我很抱歉),本以为是出于《人间失格》,但再重读了一遍《人间失格》后,却发现全篇没有一处提到“生而为人,我很抱歉”。(后来查阅了资料,这句话来源于太宰治的《二十世纪旗手》)
可是全篇无一处不提这句话。
生而为人,我很抱歉。为自己的存在,而向世界道歉。这是对自己存在着多大否定啊,每次想到这句话,都感受到了满满的自我厌恶情绪。
阅读太宰治,仿佛深切剖析存在之必然性的不定摇摆,以及攸关生死苦乐酸甜的本质。
阅读《人间失格》,借破格的文体(即无主语和述语)来表达内在的急迫与撼动,提出了生而为人的不幸。
《人间失格》是由主角大庭叶藏的手札与笔者本身的“序言”与“后记”构成。如果将叶藏的手札与太宰治年谱、传记对照并读可以很清楚“叶藏”其实就是太宰治以自身为范本所创造出来的人物,《人间失格》,大多数是取材自太宰治自身的生活经历。
在“序言”中,太宰治巧妙地以三张照片揭开序幕,三张照片对应第一到第三手札,借由照片的印象,让读者深人叶藏的内心世界。
“第一手札”是写由搞笑为出发点的叶藏的少年时期,但内容本身却浅显易懂。源白于出身富家所造成的无知与对他人意识过剩,造成自我模糊,最终导致分裂。
当自我无法固定时,因而产生存在感危机,为此以自我丑角化来弥补自我分裂的空隙。
“第二手札”描写叶藏从进人中学到殉情未遂的事情,算是对一个个事件的追述。中学时代因竹一而对妖怪似的画开窍,这可视为与太宰初期作品矢志成为作家的场景相通,而前往东京后的左翼运动体验、殉情未遂,则大致体现了昭和五年太宰治的实际生活。
“第三手札”中表演丑角的机会不多了,反倒是与堀木和比目鱼往来密切(两者可谓是俗世的代表),使得叶藏对社会的认知渐渐地由抽象转为实体。
“我似懂非懂地若有所悟。这是个人与个人之争,是当下之争而目最好能胜。人是绝对不会服从人的,就算是奴隶也会有奴隶般卑鄙的报复。因此,人除了当下求胜负外,根本不用下功夫苟延残喘。”
这是将抽象的社会化约为个人的结果,进而转为寻求纯真的信赖感。故当信赖感破碎之时,对人的失格毫无招架之力。人生的真相也就不复存在了!
叶藏,或者说是太宰治,究竟是经历了怎样的一生,才会如此痛苦、煎熬,甚至自我摧毁?
人间失格,或许只有真真正正、彻彻底底地把《人间失格》读完,才会明白:人间失格,即是失去做人的资格。
太宰治借由《人间失格》提出了身为人最真切的痛苦问题,从滞涩的文字中更可体会其内心深切的苦楚,在完成本篇作品之后,太宰治终归还是选择了自溺的方式为人生划下最后的句点。
人间的路有千百种,或得或失,选择即是失去。选择善良就无法残忍,选择怯懦就无法果敢。
给过很多伤害的世界,我终究是不爱的,可是给过我很多温暖的世界,我终究还是深爱的。
生而为人,善与恶往往是自己的一念之间,即使被生活疯狂、悲惨的蹂躏 ,也要有化为飞蛾那般的破茧重生的勇气!
是黑暗之后的光明,也是光明之后的黑暗;
是毁灭之后的新生,也是新生之后的毁灭。
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《人として》——super beaver
人は騙す
人は隠す
人はそれでも
それでも笑える
人は逃げる
人は責める
人はそれでも
それでも笑える
あなたに嘘をついて
後悔をした
僕も騙されているかも
しれないけど
疑って 暴くよりも
嘘ついた人が気付いて
傷付いて 解るほうが
いいと思うんだ
そうなんだよ
信じ続けるしかないじゃないか
愛し続けるしかないじゃないか
身に覚えのある失敗を
どうして指差せる?
受け止める以外はないじゃないか
愛し続けるしかないじゃないか
馬鹿だねって言われたって
カッコ悪い人にはなりたくないじゃないか
人として
人として
かっこよく生きていたいじゃないか
僕は迷う
僕は悩む
だけど逃げたくないし
自分を棚に上げたくはないし
疲れるなあ
虚しいなあ
それでも 誰かのせいに
したく無いんだ
カッコ悪いから
カッコ悪いから
どうなんだよ
信じ続けるしかないじゃないか
信じ続けるしかないじゃないか
愛し続けるしかないじゃないか
愛し続けるしかないじゃないか
わかってるって
自分が一番可愛いなんて
誰だってそうだ
じゃあ 共に笑うにはさ
そうなんだよ
信じ続けるしかないじゃないか
愛し続けるしかないじゃないか
身に覚えのある失敗を
どうして指差せる?
受け止める以外はないじゃないか
愛し続けるしかないじゃないか
馬鹿だねって言われたって
カッコ悪い人にはなりたくないじゃないか
人として
人として
かっこよく生きていたいじゃないか
人として
かっこよく生きていたいじゃないか