3カ月ぶりに熊本を訪ねた。熊本城ではあちこちで崩れた櫓(やぐら)や石垣が無残な姿をさらしている。「飯田丸五階櫓」では先月から応急工事が続く。細く一筋残った「一本石垣」で辛うじて崩落をまぬがれた。明治の西南戦争にも耐えた堅牢な城が崩れ、衝撃を受けた住民は数知れない。熊本城調査研究センター文化財保護主幹の鶴嶋(つるしま)俊彦さん(61)はお城の惨状を目の当たりにして涙をぬぐうお年寄りを何人も見た。「壊れた城内を一目見たい」「公開日を設けて」という要望も届く。いまだ収まらない余震のため立ち入り禁止は解けないが、市は修復過程の公表に努めている。その一環として先週、人の形が刻まれた石垣の一部分を一般に公開した。本震で崩れた一角に転がっていた石を、安全な観光施設へ運び出した。石の側面に目、鼻、口、胴がくっきり刻まれている。初代藩主の加藤清正かその息子の時代、ノミかタガネで彫られ、石垣の中で眠っていたらしい。飾りのないほほえみだが、ネットを飛び交う顔文字のようでもある。「お城の安全や永続を願って現場の石工が彫ったのでは」と鶴嶋さん。名もない石工が400年も前に彫ったかと思うと感慨深い。施設の掲示板には手書きのメッセージが何百枚も並ぶ。「負けんばい熊本城」「がまだせ(がんばれ)熊本城」「熊本城が再起するまで生きるぞう」。名城の修復にはこの先、20年を要する。元の石垣に還(かえ)るまで、笑顔の刻まれた石は城と街の復興を静かに見守っていく。
翻译:三个月后再次拜访熊本城。熊本城里原来到处散落的瞭望台和石墙的残骸已经消失不见了。“饭田丸五阶橹”从上个月开就在应急修复至今。只留下一条的“一本石垣”好不容易终于免于本亏。在明治时代的西南战争中都挺过来的坚固的城池奔溃后,而受到冲击的居民不计其数。很多人看到了熊本城调查研究文化中心文化财保护主干的鹤屿俊彦老先生在目睹了城堡的惨状后泪流满面的样子。许多人提出了“想看一眼破坏后的城里”,“请设一个公共开放日”等要求。尽管由于余震导致至今熊本城仍然没有对公众开放,但是熊本市已经把修复的过程公开发表。而作为这个行动的一环,上周公开了刻着人形的石墙的一部分。把在地震本震中奔溃的一角的石头,搬运到安全的观光设施。石头的侧面清除的刻着眼、鼻、口、身体等。在初代的蕃主加藤清正或者是他儿子的时代,用钻头和凿子雕刻后,沉睡与石墙之类。是一个毫无掩饰的笑容,类似于网络上用的颜文字。鹤屿说:“为了城堡安全永存而让当地的石工雕刻的。”是未留下姓名的石工在400年前刻的,一想到此令人感慨。现场的揭示板上写了好几百条信息。“别认输啊熊本城”、“加油啊熊本城”、“我要活到熊本城修好的那一天”等。名城的修复接下来还需要20年。而这块石头直到归还城墙位置,都会用刻着的笑脸静静的守护城堡和城市的复兴。
解说:熊本城始建于日本的安土桃山时代,具体不详。原本丰臣家臣的加藤清正在投靠了德川家康后,受封为肥后国的领主。之后对改城堡进行了改建。此后由于加藤氏被降职转封到出羽丸冈蕃,熊本城变为细川家领地。经过加藤,细川两代经营,熊本成为了日本和姬路城、名古屋城并成为三大名城。明治维新之后,日本西南萨摩藩的武士们因为对明治政府的政策不满,推举了明治维新元老西乡隆盛为头目举行反叛,叛军一度包围并且进攻了熊本城,使熊本城一定程度上受损,此后修复,在2016年4月熊本城3天内两次受到了7级地震的袭击,令城市的一部分奔溃