雨もりと料理の湯気で、ぶよぶよになった場末のアパートの便所の隣に、貧しい画家のアルゴン君が住んでいた。
三メートル四方の小さな部屋に似合わず、ひろびろと見えるのは、壁ぎわによせて置かれた椅子が一つあるだけで、ほかになんにもなかったからである。机も本棚も、絵具箱や画架さえも売り払ってパンに代えた。今残っているのはその椅子とアルゴン君との二つだけ。しかしこの二つもいつまで残っていられることか?
夕食時が近づく。なんて鼻が敏感になったんだろう、とアルゴン君は考える。複雑な匂いの複合を、彼はその遠近と色彩に区別して嗅ぎわけられる。ああ、電車通りの肉屋で揚げている豚肉のイェロー・オーカー。果物屋の店先を流れて来た南風のエメラルド・グリーン。パン屋から流れてくる感動的なクローム・イェロー。下のおかみさんが焼いている魚、多分鯖の物悲しいセルリアン・ブルー。
そうそう、アルゴン君は朝からまだ何も食べていないのだった。
蒼い顔、額の皺、上ったり下ったりする喉仏、まがった背、くぼんだ腹、ふるえる膝頭。アルゴン君はポケットに両手をつっこみ臭い生あくびを三度たてつづけにした。
何か棒切れが指先にふれる。おや、なんだろう? 赤いチョークだ。おぼえがないな。指の間でなぶりながら、もう一度大きな生あくび。ああ、なにか食いたい。
思わず。そして何げなく、アルゴン君はそのチョークで壁にいたずらを書きはじめていた。はじめにリンゴの図。大きな、一つ食べたら腹一杯になりそうなやつ。すぐ食べられるようにその傍には果物ナイフ。ごくっと生唾を飲込むと、次には廊下や窓から流れこむ匂いをたよりにパンの図。野球のグローブのようなジャムパン、バター入りのロールパン、それから大人の頭ほどもある食パン。つややかな焦目が目に浮ぶ。うまそうな割目、はちきれた肌、酔うようなイーストの香り。ついでにその横に煉瓦ほどもあるバターの塊。ついでにコーヒーを描いてやろうか。出したての、ほかほかな湯気の出ているやつ。ジョッキのような大コップ。受け皿にはマッチ箱ほどの角砂糖三つ。
おお、畜生、歯ぎしりして両手に顔をうめた。何か食いたい!
次第に意識が暗闇の中にめりこみ、ガラスの向うのパン菓子のジャングル、かん詰の山、ミルクの海、砂糖の浜、牛肉とチーズの果樹園……と駈けめぐるうち、疲れて彼はうとうととしました。
何か重量感のあるものが床におっこちる音と、瀬戸物が割れる音に目を覚ますと、すでに日が暮れて、真暗。何事だろう、音のしたあたりに目をやって、息をひそめた。割れた大コップ。そのあたりにこぼれ、まだ湯気をたてているのはたしかにコーヒーである。さらにその附近一面に、リンゴ、パン、バター、角砂糖、スプーン、ナイフ、それに運よく割れなかった受け皿。そして壁に描いたチョークの絵は消えている。
まさか、……と全身の血管が急に目を覚まして鳴りはじめ、アルゴン君はしのび足で近づく。嘘《うそ》だ、嘘だ、こんなことがあってたまるものか。しかし、そら、本当じゃないか。むせるようなこのコーヒーの香のどこに偽りがあるのか。そら、パンの肌をすべってゆくこの指の感触。思いきって、この舌ざわり。――アルゴン君、これでも信じられないというのか?――いや、本当だ。信じるよ。だが恐い、信じるのは恐い。
恐くても本当なんだ。食えるんだぞ。
リンゴはリンゴの味(これは雪リンゴだ)。パンはパンの味(アメリカの粉だ)。バターはバターの味(包紙のレッテルと同じ中味。マーガリンではない)。砂糖は砂糖の味(甘い)。ああ、全部本物の味だ。ナイフは光っていて、顔がうつる。
気がつくと、いつの間にか食べおわっていて、アルゴン君はほっとした。しかし何故ほっとしたのか、その理由を想い出すと、急にまたあわてだした。例の赤いチョークを手にとって、しげしげと観察する。いくら眺めてみても、分らないことは分らない。たしかめてみようと思えば、もう一度繰り返してみることだ。二度繰り返して成功すれば、それは現実であったというべきだろう。何か変ったものでもためしてみようと思ったが、気があせるのでもう一度描きなれたリンゴの実。……描きあげたと思うと同時に、ころっと壁から離れてころげおちた。やはり本当だった。これは、繰り返されうる事実なのだ。
突然歓喜が全身を強直させる。神経の末端が皮膚を破って宇宙いっぱいにのびひろがり、ざわざわと落葉のように鳴る。それから急に緊張がゆるみ、床に坐りこむと、息を切らした金魚のように笑いだした。
宇宙の法則が変ったのだ。運命が変り、不幸は去ったのだ。ああ、満腹の時代、慾望が現実になる世界。……神様、私は睡くなりました。
それではベッドを描きましょう。今やチョークは生命に等しい貴重なものだが、べッドというやつは、満腹すれば必らずいるものだし、別に減るものでもないのだから、そうけちけちする必要はない。ああ、生れて始めての幸福な眠りというもの。片目はすぐに睡ったが、片目は容易に寝つけない。それは今日の満足にひきくらべて、まだ験してない明日への懸念のせいなのだ。しかし、その片目もやがて睡ってしまう。くい違った両目で一晩中まだらな夢を見る。
さて、心配な翌朝は次のようにして明けた。
猛獣に追われて橋からおっこちた夢。ベッドからおっこちた……のではなかった。目を覚ますと、ベッドなんかどこにもなかった。相変らず、あるのは、例の椅子ひとつ。では、昨夜の出来事は? アルゴン君はおずおずと壁を見まわし、首をかしげる。
そこには赤いチョークで、コップ(それは割れていた!)とスプーンとナイフと、それにリンゴの皮としん[#「しん」に傍点]とバターの包紙の図。その下に、ベッド、彼がそこからおっこちたはずのべッドの図。
昨夜描いたもののうち、食べられなかったものだけが、再び絵になって壁にもどっているわけだ。不意に腰と肩に痛みを感じる。たしかにベッドからおちたとしたら感じるであろうような痛み。そっとベッドの図の、寝みだれた敷布のあたりに手をやると、微かなぬくもりが、ほかの冷い部分とはっきり区別された。
ナイフの図の刃のあたりを指でこすると、それはたしかにチョークの跡にしかすぎぬ、なんの抵抗もなく、きたないよごれを残して消え去った。ためしに新しいリンゴを一つ描いてみよう。しかしそれは本物のリンゴになってころげ落ちるどころか、貼った紙片のようにはがれようとさえせず、こすった手のひらの下で元どおり壁の地肌に消えてしまった。
よろこびは一夜の夢にしかすぎなかった。すべてが終って、何も始まらなかった前と同じになってしまったのだ。そうだろうか? いや、悲しみは五倍になって帰ってきた。そして空腹も五倍になって襲いかかった。多分食べたものが腹の中で、壁の成分とチョークの粉に還元してしまったに相違ない。
共同水道で、掌にうけた水をたてつづけに一リットルも飲むと、まだもや[#「もや」に傍点]につつまれて明けきらぬ寂しい街に出た。百メートルほど先の食堂の炊事場から流れ出している下水の上に身をこごめ、ねばねばしたタール様の汚水に手をつっこみ、何やら引出した。籠になった金網だった。それを近くの小川で洗うと、食べられそうなものが残った。とりわけ、米らしいものがその半分を占めているのが心強かった。そこに金網をしかけておくと、一日で一回分の食物にありつけることを、最近彼はアパートの名人から聞き知ったのだった。老人は、丁度ひと月ほど前から、その分だけおから[#「おから」に傍点]が買える身分になったので、食堂の下水を彼にゆずってくれたのだった。
昨夜の御馳走を想い出すと、これはまたなんて泥臭く、まずいことだろう。だが、魔法ではなく、実際に腹の足しになるということはかけがえもなく大事なことであったから、拒むことができない。喉の動きを一口ごとに意識しなければならぬほどまずくても、食べなくてはならぬのだ。くそ、これが現実というやつさ。
昼すこし前、街に出て、銀行に出ている友人のところに立ちよった。友人は微苦笑を浮べ、「今日はおれの番かい」アルゴン君はこわばった無表情でうなずき、いつものように弁当を半分わけてもらい、自動的に深く頭を下げたまま外に出た。
それから半日、アルゴン君は考えた。
チョークを握りしめ、椅子にもたれて、魔法についての空想にふけっていると、その強烈な願望の周囲に次第に期待が結晶しはじめ、やがて再び夕暮時がちかづいた時、日没とともにあの魔法が再び効力を発するかもしれぬという予想が、ほとんど確信めいたものに変っていった。
どこかの騒がしいラジオが五時の時報をつげた。彼は立上って壁にパンとバターと、サージンのかん[#「かん」に傍点]詰と、それにコーヒーを描いた。それから忘れずにその下にテーブルを描きそえた。昨夜のように落ちて割れたりすることのないように。そして待った。
やがて闇が部屋の隅から壁にそって這い上りはじめた。彼は魔法が行われる過程をたしかめたいと思って明りをつけた。昨夜すでに電燈の光りが魔法に対して無害であることをたしかめてある。
陽が沈んだ。目の迷いのように壁の絵がうすらぎはじめた。壁と目の間に霧がかかっているようだ。壁の絵はますます淡くなり、霧はますます濃くなってゆく。やがてその霧が濃縮され、物質の形態をとったかと思うと、(成功だ!)忽然、絵の内容が実体となって現われているのだった。
コーヒーはうまそうに、つぶつぶの湯気をたてていた。パンは焼立ててまだ熱い。おや、かん[#「かん」に傍点]切を忘れていた。左手で落ちないように受止めながら、描いていくと、描くはしから実体になって現われた。文字どおりの描出である。
ふと何かにつまずく。昨夜のベッドが、再び(存在)しているのだった。その上に、柄だけのナイフ(刃のところを指で消してしまったので)とバターの包紙と割れたコップがころがっていた。
空腹が満たされると、アルゴン君はベッドに横になり、さて、これからどうしたものか、今ではこの魔法が太陽の光の前では無効であることが明瞭である、明日になればまたつらい想いをしなければならない。なんとか巧く切り抜ける工夫はないものか? 名案だ、ふと思いつく、窓をふさいで闇の中にとじこもろう。
その計画を実行するためには、多少の銭を必要とした。太陽をふせぐための、太陽によって実体を失わないものが必要なのだ。しかし銭を描くのはちょっと難しい。よし、智慧をしぼって、一杯にふくらんだ財布。……開けて見ると、うまくいった、まず充分以上の紙幣がぎっしりつまっている。
木の葉の小判のように、昼になれば消えてしまうこの金は、しかし木の葉のように跡を残さないので安心だった。それでも一応警戒して、わざと遠くの街まで出向き、厚手の毛布二枚、黒のラシャ紙五枚、フェルトの板一枚、釘一箱、五分角の木材四本。さらに途中の古本屋で目にとまった料理全集を一冊。余った金でコーヒーを飲んだ。そのコーヒーは、壁から描き出したコーヒーとくらべて、いささかもすぐれた点があるとは思えなかった。それは、(何故か)彼を得意にした。最後に新聞を買った。
まず、ドアをぴったり釘づけにし、その上にラシャ紙二枚と毛布をはりつけた、残りの材料で窓をふさぎ、縁を角材でとめた。安全感と同時に襲いかかった永遠感の重さに、アルゴン君は意識が遠くなり、ベッドにつっ伏すとしばらく眠った。
居眠りは歓喜を少しも弱めず、中和もしなかった。目を覚ますと、体中に鋼鉄のゼンマイが仕掛けられていて、ぴんぴん跳ねてしようがなかった。新しい日、新しい時……黄金の粒子でできた輝く霧に包まれた明日が、そして更にその明日が、もっともっと多くのかかえきれないほどの明日たちが、ためらいもせずに待ちうけているのだ。アルゴン君は幸福そうな、いくらか持て余し気味な微笑を浮かべた。今、この瞬間は、すべてが何物にもさまたげられず、あらゆる可能性の中で、彼の手によって創られようと待ちかまえている、輝かしい時なのだ。だが、その奥底に、かすかにうずく悲哀はなんであろう? 多分、天地創造の寸前に、神が感じたであろう、その悲哀に相違ない。微笑んでいる筋肉の傍らで、小さな筋肉が微かに慄いた。
アルゴン君は大きな柱時計を描いた。ふるえる手で針を正十二時に合わせ、その瞬間を新しい運命の暦の最初の時に定めた。
少し息苦しいと思い、廊下に面した壁に窓を描いた。おや。どうしたのだろう、窓はいつまでも絵のままで、本物の窓にならない。一寸当惑した後で、すぐその窓が(外)を持たないため。つまり窓として十分な条件を備えていないために、実体を獲得できないでいるのだと気付いた。では窓の外を描こうか。どんな景色がいいかな? アルプスのような山にしようか、ナポリのような海にしようか、静かな田園風景も悪くはあるまい、シベリヤの原始林だって面白いぞ。……絵葉書や旅行案内で見た美しい風景がちらちら飛びかよう。だが、その中の一つを選ばなければならず。一つだけしか選べないのだと思うと、なかなか決まらない。まあ、たのしみは先に取っておいたほうが賢明と、ウィスキーとチーズを描いて、ちびちびやりながらゆっくり考えることにした。
だが、考えれば考えるほど分らなくなってくる。どうやらこれは容易なことではなさそうだぞ。もしかすると、おれが今まで描いた、いや、人類がかつて試みた、いかなる構図よりも大仕掛かもしれない。なるほど、よく考えてみると、単に海や山や小川や果樹園や、そんな目を楽しませるものを描くだけでは駄目なのだ。仮りに、山を描いたとする。しかし、おれが描いたのは単なる山ではなくなるのだ。その山の向うはどうだろう。町があるのか、海があるのか、沙漠があるのか、どんな人間が住んでいるのか、どんな獣が住んでいるのか? 知らずにおれはそれらを決定してしまうことになるのだ。この仕事は窓を窓にするためにする附属的な仕事じゃない。世界の創造に関わることなのだ。おれの一筆が世界を決定するのだ、そんな偶然にまかせていいものだろうか? そうだ、うかつに窓に(外)を与えるようなことをしてはいけない、おれは、まだどんな人間も描いたことがないような絵を描かなければならないのだ。
アルゴン君は考え沈んだ。
最初の一週間、彼はこの無限性をはらんだ世界の設計を想って、もんもんの日をすごした。部屋には再びキャンバスが立ち並び、テレピンの匂いが立ちこめた。何十枚もの下図が積み上げられた。しかし考えれば考えるほど、問題はどこまでもおしひろがって、ついには彼の手には負えそうにもなくなるのだった。思いきって、偶然にまかせようと思ったが、まあ待て、それでは折角新しい世界を手に入れた意味がなくなる。部分的事実の必然を正確に捉えるだけでは、それら事実相互の矛盾は、結局彼を再び過去の世界に引き戻し、飢えにおとしいれぬとも限らぬのだ。それに、チョークにも寿命がある。世界を捉えなければならない。
次の一週間は酒と飽食で走りさった。
第三週目は狂気に似た絶望のうちに過ぎた。再びキャンバスはほこりにまみれ、油の匂いはうすらいだ。
第四週目。――アルゴン君はついに決心した。それはほとんど、やけくその結果だった。もうどうしても待ちきれなかった。窓に自分の手で(外)を与える責任からのがれるため、万事を偶然にまかせる大冒険をこころみよう。壁にドアを描き、ドアの外によって(外)を決定しよう。もしそれが大失敗に終っても、例えば元どおりのアパートの光景があったとしても、窓の(外)の責任にせまられるより遥かにましだ。なんでも構わぬ、逃げ出せばいいんだ。
アルゴン君は久しぶりに上衣をつけた。世界を決定する儀式なのだから、さして大仰ともいえまい。こわばった手つきで、運命のチョークをおろす。ドアの図。……息がはずんだ。無理はない。とにかく未知の「ドアの外」を見ることは、人間に耐えうる最大の期待かもしれぬではないか。そこには代償として死が待ちうけているかもしれないのだ。
把手をつかんだ。一歩さがってドアを開けた。
目の中にダイナマイトがつっこまれた。炸裂した。……ややあって、こわごわ目を開くと、恐しいような曠野がぎらぎら正午の太陽に輝いていた。見渡すかぎり地平線以外、影一つない。空は黒ずんでみえるほど雲一つない。からからになった熱風が砂塵をまいて吹きすぎた。ああ、これではまるで構図を定めるために引いた水平線が、そのまま景色になったようなものだ。ああ……。
チョークは結局なんの解決にもならなかったのだ。やはりすべてをはじめから創らねばならないのだ。山を描き、水を描き、雲を描き、草本を描き、鳥や獣を描き、魚などを描いてこの曠野に与えねばならぬのだ。それにもまして、再び世界を描かねばならぬのだ。がっかりして、アルゴン君はベッドに倒れた。次から次へと涙があふれて止らなかった。
ポケットの中で、カサッと鳴るものがあった。最初の晩、買ったまま忘れていた新聞だった。第一面には大見出しで、「三十八度線突破!」。第二面にはそれよりも大きくミス・ニッポンの写真。その下に小さく、「N区の職安さわぎ」、「U工場の大量|馘首」。
アルゴン君は、その半裸のミス・ニッポンをじっと見つめる。なんという激しい郷愁だろう。なんという肉体だろう。ガラスの肉だ。ここに忘れられていたものがある。ほかの事件なんぞはどうでもいい。すべてをアダムとイヴから始めなければならない時だ。おお、そうだ。イヴ、イヴを描こう!
数十分の後、全裸のイヴが、アルゴン君の前に立っている。イヴは驚いてあたりを見廻し、
「あら、どなた? 私、どうしたのかしら? まあ、私、裸だわ」
「ぼく、アダムです。あなたはイヴです」アルゴン君は顔を赤らめ、いくらかてれてしまう。
「私がイヴですって? ああ、だから裸なのね。でも、何故あなたは洋服なんか着ているの? 洋服を着たアダムなんて変だわ」急に語調を変え、「嘘つき! 私イヴなんかでないことよ。ミス・ニッポンよ」
「イヴですよ。本当にイヴですよ」
「洋服を着て、こんな汚いアパートに住んでいるアダムのいうことなんて、私信用しないわ。さあ、早く、服返してよ。変ねえ、私こんなとこにいるはずないんだわ。これから写真競技会のモデルで特別出演しなければならないのよ」
「弱ったなあ。あなたは勘ちがいしているんですよ。本当にイヴなんですよ」
「しつこいわね。じゃ、智慧の実はどこにあって? これがエデンの園だっていうの? へっ、笑わさないでよ。さあ、早く服を返して」
「まあ、とにかくぼくのいうことを聞いて下さい。そこに掛けて。万事はそれから。……ところで、何か召上りますか?」
「召上るわよ。でも、服は早く返してね。私の肉体は高価なのよ」
「何がいいですか? この料理全集の中から、お好きなものをどうぞ」
「まあ、すごい、本当なの? こんな汚いアパートにいるくせに、あなた随分金持なのね。見直すわ。あなたは本当にアダムかもしれないわ。職業は何? 強盗?」
「ちがう、アダムですよ。アダム、兼、画家、兼、世界設計家」
「分らないわ」
「ぼくにも分らない。だから絶望してるんです」
そう言いながら、手早くアルゴン君が描き出した料理を見て、イヴは叫んだ。
「あら、すごい。すごいわねえ。本当にエデンの園ね。信じるわ。そのチョーク、そんな風になんでも出せるの? たまらなくなっちゃうわ。ええ、いいわ。私、イヴになるわ。イヴになってもいいことよ。私たち、きっと金持になれるわね」
「ぼくのイヴ、それじゃ聞いて下さい」そしてアルゴン君は悲しそうな声で、一部始終を物語り、最後につけ加えて、「……そんなわけで、私はあなたの協力をえて、一緒に世界の設計をしなければならないのです。お金なんか問題じゃありません。私達は一切を最初から始めなければならないのです」
ミス・ニッポンはきょとんとした顔で、「まあ、お金が問題じゃないんですって? 分らないわ。分らないわ。断然分らないわ」
「そんなにおっしゃるのなら、まあ、このドアの外の景色をごらんなさい」
アルゴン君が半開きにしたドアをちらっとのぞいて、「まあ、いやだ!」叩きつけるように閉めるとアルゴン君をにらみ、「でも、こっちのドアは……」と毛布で覆った本物のドアを指して、「ちがうんでしょう」
「いけない。そっちは駄目です。もとの世界は一切を消してしまいます。その料理も、机も、ベッドも、そしてあなた自身さえも。あなたは今、新しい世界のイヴなんですよ。ぼくらは世界の父と母にならなければならないのです」
「まあ、いやだ。私だんぜん産児制限主義よ。だって、面倒なんですもの。それに、私、消えたりしないことよ」
「消えますとも」
「消えませんとも。自分のことは自分が一番よく知っててよ。私は私、消えるなんて、なんておかしなことをいう人なんでしょう」
「ぼくのイヴ、君は知らないんだ。世界をつくりかえなければ、結局ぼくらを待っているのは飢えなんだ」
「あら、あなた[#「あなた」に傍点]が急に君になったのね、それにしても、失礼だわ。私が飢えるんですって? 驚いちゃうわねえ。私の肉体は高価なのよ」
「いや、君の肉体は、ぼくのチョークと同じなんだ。世界を獲得しなければ、結局は架空の存在なのだ。無と同じなんだ」
「ちんぷんかんぷん。おしゃべりはもう結構。さあ、早く服返してよ。私もう帰るわよ。どう考えたって、私ここにいるなんて妙だわ。ここにいるはずはないのよ。全くあんた凄腕だわ。さあ、早くして。きっとマネージャーが待ちくたびれているわよ。でも、私時々あなたのイヴになりに来てもいいわ。そのとき、ほしいものをチョークで出してくれるんなら」
「馬鹿! そんなわけにはいかないんだ」
アルゴン君の、急に激しい口調に、イヴは驚いて彼の顔を見た。二人はじっと見合ったまま、しばしの沈黙。やがて何を思ったか、イヴが穏かな調子で、
「いいわ、私、ずっとここにいてもいいわ。その代り、条件があるの聞いてくれる?」
「どんなこと? 君が本当にずっとここにいてくれるというなら、どんなことでも聞いてあげるよ」
「私、あなたのチョークを半分ほしいの」
「そいつは無理さ。だって、君、絵を描けないだろう。なんにもならないじゃないか」
「描けるわよ。これでも、もと、デザイナーだったのよ。私、断然男女同権を主張するわ」
一瞬、首を傾げていたが、アルゴン君は姿勢を正し、きっぱり言った。「よろしい。君を信用しよう」
そしてチョークを注意深く半分に折り、一方をイヴに渡した。イヴは受け取ると、すぐに壁に向って何やら描きはじめた。
ピストルだった。
「よしたまえ。そんなもの、何するんだ」
「死……死をつくるの。世界をつくるには、まず物事のけじめ[#「けじめ」に傍点]が大事でしょう」
「駄目だ。そりゃ終りだよ。およしよ。一番必要のないものだ」
しかし、もうおそく、イヴの手には小型のピストルがにぎられていた。イヴはそのピストルを上げ、アルゴン君の胸元にぴったりねらいをつけて、
「動くと撃つわよ。手をあげて。お馬鹿さんのアダム、誓いは偽りの始まりということを知らないの。私に嘘をつかせるようにしむけたのはあなたよ」
「なんだ。また、何を描くんだ!」
「ハンマーよ。ドアを打ち破るの」
「駄目だ!」
「動くと撃つわよ」
アルゴン君がとびかかると同時に、ピストルが鳴った。アルゴン君は胸をおさえ、膝を折り、床に倒れた。不思議に血が出なかった。
「お馬鹿さんのアダム」
イヴは笑った。それからハンマーを振り上げてドアを打った。
さっと光が差し込んだ。それほど強くはなかったが、それは本当の光だった。太陽から出た光だった。イヴの姿はぱっと霧のように吸収されてしまった。机もベッドもフランス料理もなくなってしまった。アルゴン君と、床にころげた料理全集と、椅子をのぞいた一切が、すべて壁の絵に還ってしまった。
アルゴン君はふらふらと立上った。胸の痕は癒えていた。しかし、死よりも強くなにものかが、彼を招いている、強制している。――壁。壁が呼んでいるのだ。四週間、壁の絵ばかり食べつづけた彼の肉体は、ほとんど壁の絵の成分でおきかえられてしまっていたのだ。もはやどんな抵抗も不可能である。アルゴン君は壁に向ってよろめいた。そして、イヴの上に重なるように、吸い込まれていった。
銃声と、ドアを打ち破る音を聞きつけたアパートの人々が駈けつけた時には、アルゴン君はすっかり壁の中にはまりこんで、絵になっていた。人々は椅子と料理全集のほかには、壁の落書しか見なかった。絵になってイヴの上に重なったアルゴン君を見て、「絵描きさん、よほど女に飢えていたんだな」と誰かが言い、「アルゴン君、まるで本物みたいに描けているじゃないか」と別な誰かが言った。「なんてことしやがるんだ。ドアを壊したりして。おまけに壁は落書だらけでさ。うむ、唯じゃおけんよ。え、一体どこに消えっちまったんだい、あの三文絵描きめ!」ひとりでぷりぷりしているのはアパートの管理人だった。
人々が出て行った後、壁の中からこんな呟きが聞えた。「世界をつくりかえるのは、チョークではない」そして壁の上に一滴のしずくが湧き出した。それは丁度絵になったアルゴン君の目のあたりからだった。
魔法のチョーク
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