今の日本人は「見者」あるいは「見者」をみればケンじゃと読むでしょう。多少なりとも外国文学をかじった人なら、フランスの詩人ランボーの『見者の手紙』を思い起す。そして「者」でも「者」でも、その文字を単独に見れば、シャもしくはモノという音を反射的に発します。声に出さなくても、心の中でそう読む。ところは「田兒之浦~」の漢字の原文を記した人は、「見者」を見ればミレバと読む人だったのですね。というより、ミレバは「見者」と書き表せることを知っていた。ミレバを「見者」と記す文字を持っていた。この歌の前に置かれた長歌にも「天原振放見者」がありますが、最初にミレバを「見者」と記した人はほんとうに賢者であったと、ぼくは「見者」の二つの漢字を見れば見るほど、つくづく感心します。
日本語はいつ頃から「者」をバと読むようになったのでしょう。それは分かりませんが、万葉集以前、日本語は大量の漢字・漢語に出会っていた。たとえば、こんな一節に出会っていただろうと、想像できます。
现在日语里,见者就念作jian zhe。以前看外国文学的时候,法国诗人兰博的《见者的信》沿用的就是老式的写法。当看见这种老式写法的时候,第一反应是者应该念zei而不念zhe。虽然没有读出声,但心里肯定是这么念的。就像是看见「田兒之浦~」里见得的人,也会暗自把见得读作jian de。见者是见得的一种更书面的说法,在当时记录的时候,都会把见得记作见者。在这首歌前面的一首长歌《天原振放见者》里,其中的见者最初就是见得。创下此举的应该是一位见识颇丰的文人,将见得记作见者,实在是将其提高了几个档次。
日语是在什么时候,把者这个字念作de的呢?在万叶集之前,还有一些记载大量日语中汉字汉语的文献,其中给大家摘录一小节。