提到「~ことができる」这一句型,首先我们先想到的是它的接续法为动词基本形接「ことができる」,表示能力或可能性,有时根据上下文也可以表示允许。如下面的几个例子:
タイ語を話すことができますか。
你会讲泰语吗?
あの人は、ゆっくりなら20kmでも30kmでも泳ぐことができるそうだよ。
要是慢慢游,据说他能游二、三十公里呢。
残念ですが、ご要望にお答えすることはできません。
很可惜,我们不能满足您的要求。
寮の洗濯機は何時まで使うことができるのか。
宿舍的洗衣机能用到几点?
日本では何歳からお酒を飲むことができるの。
在日本,多大年龄才能饮酒?
类似的句子相信大家在初学日语的过程中都或多或少接触过。那么是不是所有动词的原型都可以接「ことができる」呢?
答案是否定的,如下面的例子就是不成立的:
✖彼は日本語が分かることができる。
他能听懂日语。
为什么说它是不成立的呢?因为「分かる」本身已经表示“懂、明白、能理解”的含义,它同「見える」「聞こえる」这种本身就明显带有能力的特殊自动词一样,不适用于「~ことができる」这种句型。
我们很多的日语学习者在看到“能”和“会”的时候,就会习惯性地译成「~ことができる」,其实随着对日语学习和研究的深入,我们会渐渐地发现根据语境及说话人想法的不同,“能”和“会”在很多情况下是不能被译成「~ことができる」。例如在前面讲过的例子「彼は日本語が分かることができる」,说话人要表达的意思就是“他能听懂日语”,而「分かる」这个词,它本身就表示“能懂”,因此这后面的「~ことができる」就成了多余的部分,最后它的正确表达应该是「彼は日本語が分かる」。
如果深入了解“能”和“会”以及与它们相对应的日语译文的话,还可以发现当句中有“能”和“会”,而句子的整体是表示某种结果的时候,“能”和“会”通常不译成「ことができる」,而译成「~ことになる」「~ようになる」「形容词连用形 く+なる」「形容动词连用形 に+なる」
もしわたしが今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。
要是我现在就把肩膀放松,就会一下子垮掉的。
許すかどうかは問題になると思うけど。
我想能否原谅是问题关键。
あることはやりやすくなるだろうね。
会使某些事情做得顺利吧。
隣の子供は最近きちんとあいさつするようになった。
邻居家的孩子最近会规规矩矩地打招呼了。
还有,当句中有“能”和“会”,而句子的整体是表示某种推测、估计时,“能”和“会”通常不译成「ことができる」,而是译成「だろう」「はずだ」。请看下面例子:
これだけ長い手紙を書けば、両親が満足するだろう。
我写了这么长的信,父母会满意吧。
今週は東京に行くと言っていたから、明日の会議には来ないはずだよ。
因为他说这周去东京,所以明天的会他是不会来啦。
一般在说“能”和“会”,我们往往会先入为主,使用「~ことができる」,但事上存在着许多不同用法和特点,因此,在说话过程中要注意根据场合和意图及一些特殊动词来使用,避免出现如「分かることができる」这样的错误。